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貴重な映像ありがとうございます。5:41の松任駅での旧客普通列車と旧客を使用した急行 越前の並びが最高に良いですね。また普通を待避させてその横を長編成の急行が追い抜いていく所に本線の風格がありますね。
そうですね。普通列車も長編成なんです。昔は急行も通過していた松任駅。そんな松任駅に今は、特急も止まるのです。今の特急って一体特急なの?って思います。
懐かしすぎて涙がチョチョ切れる・・・中学生のころ、なけなしのお小遣いで友人と金沢へ撮テツしたことを思い出します。北陸本線は、当時すでにほとんど見なくなった旧客が走りまくっていて・・・・友人と旧客ってなんかいいね、ってファンになってしまいました。予定の無かった旧客列車に乗ってしまったことも思い出します。そうそう、金沢から帰るとき客車時代の「きたぐに」に乗ったのですが、ガラガラと思っていた自由席が満席、想定外の事態に指定が2席空いて、友人からお金を借りて指定に座ったことも思い出しました!
メッセージありがとうございます。当時ほとんど見なくなった旧客が走りまくってた北陸本線。多分、これって交流電化だったからだと思います。直流電化だと、旧型国電に変わってしまって、旧客は山陰や東北などの、非電化区間や交流電化の区間に行ったのではないでしょうか。 きたぐには、満席でしたか。でも、いい思い出になったみたいで良かったですね。
@@HobbyVideos 旧客の消滅って交流区間も直流区間も大差ないです。
お疲れ様です😊楽しみに観ます。とても懐かしいですね😊確かこの車両43系ですかね。乗り降りのドアは手動式ですよね❗️子供心に怖かったの覚えています。置き換えに50系レッドトレインに変わりましたよね😊古き良きて感じですね☺️
多分、43型は、台車を変えて、47型になり、それと35型時々10型も入っていたようです。50系は、七尾線に一時入りましたが、北陸本線は、旧型客車と入替に、寝台特急電車の改造の419系に変わりました。(余談ですが、旧型客車は系を持たないそうで、型と書きますね。私も最近になってそれを知りました。)
私も、子供のころ米原行の旧型客車にのる機会が多かったです。米原駅で機関車が連結する前の客車の中でのんびり蕎麦食べて時間待ちしてましたね。当時は米原から泊行の長時間、長距離鈍行列車があってのんびりした時代でいつか乗ってみたいと思いました。
メッセージありがとうございます。なるほどね。でも子どもの頃って旧型客車よりも、新しい電車に乗りたいと思った事はないですか?私は、山陰本線の鳥取に住んでいましたが、当時の旧型客車は、白熱電球でした。子どもの頃は、そんな旧型客車に乗って、蛍光灯の付いた気動車に乗りたいな!と思った事がありました。
@@HobbyVideos 私は学生の頃から旧国・旧客派でした。
北陸本線沿線の福井に住んでいますが、実家の近くでいつも見ていた本当に懐かしい光景です。まさに10代にみてました。ありがとうございました。
+0929 eio さん メッセージありがとうございます。今は521系の電車が走っているのですが、今となっては想像も付かない光景かも知れませんね。でも、知っている人は懐かしいと言ってくれます。
いつも大変興味深く観させて頂いております。この動画においては、まず旧型各車の編成が35系、47系、10系と混合になっているのに興味をそそられました。上野発の旧客列車にギリギリ乗車出来た私としましては、たまらなく郷愁を誘われました。あと急行「越前」の走行シーンが出て来ますが、実は高校の山岳部に所属していた時、1980年に北アルプスに向かう時利用しましたのでもう走馬灯のように当時のことが甦りました。登山シーズンだったので車内は大混雑、仕方なくデッキのスペースにザックを置きそれに座って一晩やり過ごしたのを、大変懐かしく思い出されました。でも…のどかな時代でしたね。
+Tama Kaneko さん メッセージありがとうございます。山が好きなんですね。良く聞く話なんですが、上野駅からお盆なんかは、ドアーの閉まらない急行越前や能登なんかに、乗って、立ったまま高崎くらいまで行き、リュックにもたれて寝てしまったりして、朝になったらピッケルが、人ごみの空気なんかで、錆びているとか聞いたことがあります。でも、北アルプスでしたら、新宿から旧客の夜行で松本へ行き、大糸線の水色の電車、って言う行き方が定番だったのではないでしょうか?白馬なんかから、登る時は糸魚川から大糸線に乗った方が速いのかな? まあ、そんな時代の列車、東京では、自動ドアーの山手線や中央線の103系がバンバン走っている時代、北陸の田舎では、交流電化のため、こんなドアーのアケッパの旧客が残っていたのです。もし、直流電化されていたら、大糸線や新潟のような旧型国電になっていたかも知れませんね。
+国鉄時代の鉄道ファン 返信ありがとうございます。若い頃はよく北アルプスに行ってました。越前で北陸側から入山したのは、新穂高温泉から雲ノ平、薬師岳、立山に行く縦走をしたためです。アケッパの客車はもう時代の遺物と化してしまいましたね。なお、私の時代はギリギリ新宿発長野行夜行鈍行が消えた頃かと思います。松本行夜行電車(113系)では長野方面から北アルプスに入山するには到着時刻が遅すぎました。南アルプス、八ヶ岳に行く時はよく利用しました。後立山、槍穂高などに行く際には専ら急行アルプスを利用していました。旧型国電には、中学の頃身延線で何回か乗りました。今はもう旧型国電も何処にも残ってないんですよね、時の流れを痛感します。
+Tama Kaneko さん メッセージありがとうございます。新穂高温泉から立山ですか?すごいですね。あそこはダイヤモンドコースって言うルートで、私は昔立山室堂から一の越、五色が原、スゴ乗越、太郎、黒部五郎、双六を経て笠ヶ岳まで6日くらいかけて歩いたことがあります。帰りは高山から急行のりくら、富山から急行しらゆき どちらもキハ58系の列車で帰ったのですが、高山から富山まで急行に乗っていると、こんな距離を歩いたのか!ってしみじみと歩いた距離の長さを感じていました。身延線は、旧型国電が一杯走っていたようですが、もしも、北陸も直流電化されていたら、同じ運命をたどっていたのでは、ないかと思います。
貴重な動画有難う御座います。鉄道も進歩して行く訳ですが、やはり客車列車は良いですね。43系は客車の代表的存在ですね。私はEF58の牽引する急行荷物列車が一番好きですね。
EF58牽引の急行荷物列車ですか。私は山陽本線で撮影した事があったかな?もちろん静止画ですけどね。
現在の盛岡に移り住み30年たった今、松任生まれの松任育ちの私にとってはとても貴重な映像です、ありがとうございます
メッセージありがとうございます。松任生まれの松任育ちですか?私は今、松任に住んでいるのですよ。松任はずいぶん変わりました。市が、白山市となって、駅も、橋上の駅となって、横には新幹線の高架が出来、駅前のジャスコはどは、立体駐車場となって、今、駅の下を通る地下道の工事が行われています。私も、変わりゆくふるさとの風景をいっぱい記録しています。
当時通っていた小学校がこの動画の撮影地点あたりだと思われます。ぜひ故郷の記録を大切にお願いいたします。
新井慎一郎 さん メッセージありがとうございます。もしかして、蕪城小学校かな?それとも、北陽小学校かな?蕪城小学校は、もう移転して、新しく田んぼの中に立っています。昔の蕪城小学校の場所は、保育所と住宅地になっています。
はい「蕪城小旧」でした、なのでこの動画の光景が懐かしくてたまりません。また祖父が国鉄松任工場に勤務していましたので、その事も同時に懐かしく思い出しています。いずれは帰ろうと思いながらも、現在の盛岡で28年目を迎えております。ぜひまた、松任市内の画像がありましたら、アップお願いいたしますね
新井慎一郎 さん メッセージありがとうございます。そうでしたか。蕪城小学校の近くに、北陸本線を高架で通過していた道路がありましたよね。今は、その道路がアンダーパスになっています。あの辺は、本当にずいぶん変わりましたよ。写真は、時々撮影していました。
大変懐かしく拝見しました❗️高校時代大門から東富山まで通学しました❗️城端から来る普通でこれを逃すと完全に遅刻。よく出発を遅らせてもらいました
こんな列車で通学なんて、最高ですね。
ありがとうございます。こちらもとてもなつかしいです。蒸気が無くなったあと、電機とくに旧型を追いかけた時期がありまして、敦賀のED70が余命短いと聞いて、北陸本線の新疋田あたりに通った時期があります。関西や名古屋からの特急、急行が行きかう中で各駅列車が旧型客車だったのを見て驚いた記憶があります。EF70もバリバリの現役でしたし、EF81は最新鋭機でした。70年台半ばのお話です。
メッセージありがとうございます。私と同じ頃ですね。私は70年代半ばは、高校でその頃に初めて近江塩津へ撮影に行きました。その時米原から乗った旧型客車がDD50牽引の漁船のエンジン音の列車だったのです。田村からは、EF70が牽引し旧型客車とは言え、山陰本線と違って猛スピードで走る姿に感激しました。 写真しか有りませんが、当時はED70も走っていましたね。私は、近江塩津の湖西線が工事中の時に撮影に行きました。私の「国鉄時代の鉄道ファン」のホームページに写真を載せています。白黒ですが・・・。 旧型客車は、蒸気時代の旅の雰囲気を少しでも感じる事の出来る乗り物だったんですよね。
冒頭にある ピッタリ止まった筈が 懐かしの光景です。 こんな当たり前の旧客の時代、またそれに戻っても良い そう思うこの頃。
大井川鉄道に行かなければ・・・・あそこに行くと、タイムスリップしたような気分になれるかも。
この列車に乗って西金沢~福井まで通学していたような気がします)。車掌さんが無線で「上り222機関士どうぞ!」とやり取りしていたのを何度も聞いた覚えがあります。この222列車が1975,6年頃も運行していたのなら・・・ですが。いずれにしても懐かしい思い出が溢れ出しました。西金沢5:59発だった気がします。
西金沢から福井まで通学って、ずいぶん遠いですね。でも、今から思えば、すっごく贅沢な通学だったのかもしれませんね。
客車の米原行きは、途中でディーゼル機関車に切り替わるんですよね。あの当時は「古臭いなぁ」なんて思ってましたが今思うと、味があって旅情が沸いていいですね。ありがとうございました。
古臭いか!そうも感じますね。
清水俊介さん実はそうだったんです。それでは早速ですが、その理由についてご回答いたします。そもそも客車列車全廃後というか、JRになってからの1991年9月までは坂田~田村間に直流↔交流切り替えのための「デッドセクション」(無電流区間)がありまして(その後同年9月14日の坂田~長浜間直流化の際に長浜~虎姫間の米原起点9.5㎞地点に、さらに長浜~敦賀間直流化の際に現在の「小牧かまぼこ」本社屋兼工場が建っているあたりにそれぞれ移設。この15年もの間にデッドセクションの移設を2度行った事例は極めて珍しいといえる)、1962年に導入された北陸本線の客貨輸送のリーダーシップ的存在だったEF70は交流専用でそこを通過できないため、田村でDE10↔EF70の相互付け替えを行っており、長時間停車をその分余儀なくされました。しかしながらEF70はJRになるのを待たずして全機が退役してしまったため、1両もJRに引き継がれなかったのが惜しまれます。なお坂田と河毛はホーム有効長が気動車2両分しかなかったため、1日に指折り数えられる程度しか停車できませんでしたが、前者は坂田~長浜間直流化の際に駅を米原寄りに200m移転させたことにより、供用開始までの間は新旧両方を拝むことができました。後者は単に電車1両分敦賀寄りに延長しただけでしたが、長浜~敦賀間直流化工事を兼ねて駅の改装に取り掛かった際、「SL北びわこ」対応としてさらに3両分敦賀寄りに延長して現在の姿と化しています。
@@rhscm989さんデッドセクション(死区間)ですよね。知ってますよ。485系のしらさぎに乗ってる時に一瞬だけ車内の明かりが消えましたね。コメントありがとうございました。
乗ったなぁ、旧客。中学時代(70年代)山中温泉に泊まって金沢に出るときにわがまま言って乗った記憶もあるし大阪から福知山線で背もたれまで木製(クッションなし)の61系に乗った記憶もありますよw発車するときの連結器の音がしばらく続くあれが好きでしたね。今も会社が加賀市で仕事があるので、大聖寺と加賀温泉間はどこかがわかってしまうw
旧型客車が好きだったのですね。61系に乗られたとは、良い経験ですね。あの客車は、シートピッチが狭く、窮屈でしたでしょ?それに、室内灯は、白熱電球だったかな?
@@HobbyVideos そうそう、狭かったですよ。確か出雲市行きだったと思う。山陰線でも旧客乗った記憶がありますね。まだ今のトロッコ線の線路使っていた頃です。出発の時の連結器の断続音が好きでした。
自分がカメラ系の撮り鉄してた頃の少し後ですね。後でうるさいのはひ・・・まだ言ってませんよw旧客は発車した直後の後ろの車両まで続いていく、連結器が当たる音が好きですw特に夜に乗った時は独特の感情が芽生えたもんですwそういや自分のアルバム整理してたら1978年の金沢駅の写真が出てきました。家族旅行なのに朝早くに金沢駅で父と撮り鉄してましたねwww出てきた写真ですが、旧客はもちろん特急白山と急行(475系の方の)長サボゆのくにとの並びがあったり、入れ替えしているEF81のトプナンがあったり、七尾線用で屋根を赤く塗った珍しいキハ65があったりしましたよ。
貴重な写真をお持ちなのですね。スライドショーにして、RUclipsにアップすると良いと思いますよ。私も、ビデオを始める前の写真も色々あるのですが、なかなか忙しくて、スライドショーにする暇も無いのです。
@@HobbyVideos 時間ができたらするかもしれません。京都市電が現役だった頃の写真もあったりしますw全部自分が中学生の時に取ったものですw
@@HobbyVideos あとごめんなさい、屋根の赤いのはよく見たらキハ53でした^^;
そうそう京都市電、私も撮影しました。写真ですけど。
両運転台の急行系ですね。
滋賀県民ですが、懐かしいですね。昨秋、1/150でEF70(K社)が20数年ぶりに再販されて、往年の編成のヒントとして見させて頂きました。田村駅で小さい頃みてました。
メッセージありがとうございます。小さい頃の思い出の列車。思い出の車両。それはもう模型で残すしかないですね。わたしも、いづれ見れなくなるだろうと、必死で撮影したビデオです。
お久しぶりです。あれから、旧客(+郵便車)を中古や新品でかき集めて楽しめるようにしました。レンタルレイアウトでの再現が楽しみです。一昨年のEF70だけでなく昨年にはED70も発売。益々、往年が楽しめて嬉しいですよ。余談ですが、群馬県内に生体保存のEF70を見ることができるそうなので何時かは見に行きたいですね。
スハ43系の中で、ナハ10?が1両混じっているのが、何とも言えないですね~HOの模型編成でも、こういう雰囲気を再現して、楽しみたいです!
当時は、スハ43型は、台車を変えてオハ47型になったのが多かったみたいです。ナハ10は、全国各地で時々連結されてましたね。このナハ10は、旧型客車とは、言わないのですね。・・・軽量客車でしたっけ。そして、12系は、なんて言うのだろう。・・・新型客車?
@@HobbyVideos 分類は曖昧です。10系は20系等と違って電源車&固定編成ではないので旧客に入れる人(私も)もいます。
北陸本線にこんな客車がいた時代があったんですか!?はじめて知って衝撃です!
昔は、普通列車は、このような客車でした。北陸本線は、交流だったので、このような客車になったのでしょうね。もし、直流電化だったら、旧型国電が走っていたのではないでしょうか?
声が優しい
ありがとうございます。
最近、仕事場で後輩と喋っていたら、鉄道列車全てを電車と言ってました。気動車、客車列車を全部ひっくるめて電車みたいです。貨物列車でもコンテナ特急とローカルがあったり、荷物列車、急行、鈍行と色々な列車あったのに、いつの間にか合理化で消えてしまいましたね。
メッセージありがとうございます。そうそう、昨日、テレビの番組で九州の豪華列車って言うか、人気列車の番組を見ていたら、てっちゃんの人が話をしていたのですが、この電車は、タブーなんです・・・とか行って、出てきた映像をみてみたら、なんと パンタグラフが無い。もしかして、電車じゃーないの?って思いました。つまり、鉄道車両は、いまや全て電車って言うくらい、電車化が進んできたのでしょうね。昔、蒸気機関車の事を、全てデゴイチなんて言ってた人もいたようですね。ところで、私、小学校の2年から4年まで、兵庫県に住んでいました。あるとき、バス遠足で、国鉄山陽本線の踏み切りと私鉄の山陽電鉄の踏み切りを渡るとき、バスガイドが、2つ踏み切りを渡りますが、1つめが、汽車の踏切で2つめが電車の踏切です。って私たち小学生に説明していました。 つまり、あの当時は、国鉄・・・・・>汽車私鉄・・・・・>電車って子どもだましに教えていたのでしょうね。でも、実際、七尾線も電化され、金沢では、電車しか見れなくなってしまった状態だからね、電車と言って、まあ外れる事はないかもね。貨物以外。それはそうと、最近は、コンテナーしか走っていませんが、これは、どう言ってます?みんな、貨物って言っているように思うのですが・・・・
返信、ありがとうございます。貨物はたまに貨物列車と言っているのを聞きますね。コンテナ車とタンク車ぐらいしか見たことないみたいです。ワムハチは畑や空き地によくある倉庫だそうな。
石黒智 さん メッセージありがとうございます。昔の貨物は、今は、倉庫になっているのですね。でも、それだけ丈夫って事かな?線路の上に居たら小さいけど、畑に置いたら、大きいですね。中にベッドを置いてそこで、生活が出来そうな。 昔、家具の配送をしてた時、ソファーをお客さの家に届けた時に、必ず言われる言葉、「お店で見てたら小さいけど、家に入れたら大きいですね」とか、「このソファー大きくなったのですか」とか、言われてしまいました。(笑)
鉄道郵便がなくなったのは59-2改正(護送便は61-11改正?)みたいです。
その頃なのかな?郵便も鉄道よりもトラックつまり道路に変わりつつあったのですね。これからの鉄道は、どうなるのでしょうかね。都会はもちろん威力を発揮できるでしょうが、田舎はそうは、行かないのです。とにかく、田舎は駅から目的地まで交通手段が貧弱なので、みなマイカーに頼る時代になっています。
@@HobbyVideos 私はオッサンですが、1960年代生まれなので「現役」SLは見た事ないです。話を戻して、北陸本線も普通列車のダイヤ悪いですね⁉️今は貨物が少ないので、毎時大阪特急2本・名古屋(米原)特急1本・普通1本(金沢~小松は2本)の時刻表要らずのパターンダイヤは可能なはず。しかも、車庫が金沢なので金沢~敦賀の直通の方が乗り換えなしで便利で、ダイヤ設定も楽なのでは?あと、泊~直江津以外は3セク化すべきではなかったですね。
同級生のお父さんが、郵便車に乗って仕分けをしていたそうです。客車は、福井の嶺南から嶺北へ通学する高校生が利用し、ふざけていてデッキから転落した生徒もいたそうです。
メッセージありがとうございます。高校生か!やりそうですね。
普通客車同士で嶺南から嶺北(小浜線下りから北陸線下り)へ広域移動>1980年10月1日改正段階で毎朝9時台序盤に1回だけ実際にできていたのです。その内訳は、東舞鶴を7時01分に発車したDE10が牽引する※931列車が敦賀1番線に9時04分到着後、その5分前に同駅2番線に入線済みの米原を8時ちょうどに出発した1274列車に同じホームで2分の待ち合わせで接続するダイヤでしたが、931列車からの接続相手で最も早く敦賀を出発する列車であるがゆえに、2駅先の今庄で1274列車の11分後に発車した特急「雷鳥」3号(新潟行き)に、さらに鯖江でも1274列車の24分後に発車した急行「立山」1号(糸魚川行き)にそれぞれぶち抜かれ、最終的に終点・福井到着は10時21分と1274列車の41分後に発車した特急「雷鳥」5号(金沢行き)に3分差にまで詰め寄られるという、いかにも嫌らしいダイヤでした。※三松・勢浜・若狭有田・藤井・東美浜・西敦賀の6駅は通過。
この客車列車は、友人が福井の学校に通学するのに使っていて、デッキでふざけていて田んぼに転落、、、した人がいました。幸い命に別状はありませんでした。
やっぱり、そう言う馬鹿たれが居るから、困るんですよね。これは、誰が悪いと言う事になると、普通ならば、ふざけていた人が悪いと言う事なんだけど、今はおかしな時代で、ふざけていても転落しない対策を講じていなかった鉄道会社が悪いと言うことで、旧型客車は、消えました。
ナレーションの雰囲気が何かに似てると思ってたら『真珠の小箱(紀行番組)』ですね
自己流でナレーションやってます。
昔は列車の運行本数少な目だったから長大編成になってたんですよね
長大編成になっていた理由はわかりませんが、確かに列車の本数は、少なかったですね。
この時代よくお世話になりました。当時米原発長岡行と言うとんでもない普通列車が存在しましたね。
はい、私はそれの逆方向、長岡発米原行に新潟県の青海川から米原まで乗りました。車掌さんは、何度も何度も車内をまわって、私は、あの車掌さんず~っと乗っているので、どう思われているかとか、色々考えたりしていました。
国鉄は高価な交直流電車や交流電車は多数製造せず、交流電化区間は長らく普通列車だと客車がデフォだったぽいですね。東北地方も同様。ここ北陸本線も国鉄末の国電型ダイヤ導入でようやく普通に電車導入。だけど予算がないので、あの旧寝台型電車583系を最小限改造した419系という異形式の出番となりましたな。
メッセージありがとうございます。そうですね。もしも直流電化されていたら、旧型国電なんかが、走っていたかも知れませんね。
新潟地区や富山港線の実績がそれを示していますねえ。
そう言えば富山港線は、旧型国電でしたね。新潟色の国電が米原から新潟まで走っていたり・・・・もしかしたら、大糸線も電化され、松本から糸魚川まで電車が走っていたかも知れませんね。何か、北陸本線の直流電化で夢が広がってしまいました。
@@HobbyVideos さん富山港線(現富山ライトレール)は、元々富山電気鉄道と言う私鉄を旧国鉄が買収したのがルーツですからね、同じ形態では、JR仙石線(旧宮城電気鉄道)もそうでは❓
5:00~ 「鈍行列車」、、乗車口なんか空きぱなしで・・・ユルイ時代でしたね。確か、、トイレの便器の底から線路が見えていた覚えが・・・^^。12:36~ 北陸線普通列車も気が付けばメチャ進化してしまったわ~。
+TheJackmaster7 さん メッセージありがとうございます。あはは!私昔東北旅行中、オーバーオールを着てて、胸のポケットに小銭を入れてたのを忘れて、トイレで、肩ひもを外したら、小銭が、便器に落ちてしまい、覗いたら、線路が見えていました。 昔は、そんな時代だったのですね。急行きたぐにや津軽、八甲田ですら、ドアーは、手動でしたからね。
今と思えば、このトイレでウンコしてみたかった。
@@山辺渉 私はあるはず⁉️
@@山辺渉 大井川鐵道のSL列車に乗れば体験できると思いますよ
機関車後ろの郵便車には冷房がついていたのですかね?映像を拝見すると、それらしきものが見えたので・・・。
メッセージありがとうございます。そうそう、郵便車は冷房が付いていました。お客の乗る車両は、クーラーなしなのにね。当時、みんなそう言ってました。
国鉄時代の鉄道ファン自分も幼少のころ、常磐線で上野発仙台行の旧型客車などを見ましたが、旧型客車は乗降用のドアが自動ではなく、手動のため、完全に止まる前に降りてしまう人がいたのを覚えています。
全ての郵便車がそうだったわけではありませんが、222レに使われていたオユ10・オユ11は後の改造で多くが冷房化されました。また、最初の方に出ていた、右カーブを曲がってやってくるシーンでカマ次位にいたスユ16は最初から冷房化されていました。普通の客車や荷物車(電車や気動車も)は国鉄所有ですが郵便車は当時の郵政省の所属で冷房化するのも郵政省の意向で出来た側面もありますが、最大の理由は、これらは扱い郵便車と言って車内で郵便物の仕分けをする関係で窓を開け辛かったため早期に冷房が普及したものです(車内で郵便物の仕分けをせずただ郵袋のみを運ぶ護送郵便車は全車種全車輛最後まで冷房化されていません)。尚北海道や東北方面など主に寒冷地で運用されるものや、車内の一部のみ郵便車機能(所謂合造車)を持つものは冷房化されていません。
SleeperExpressJNR さん とっても詳しいメッセージありがとうございます。今、1971年版の客車・貨車ガイドブックを見ているのですが、オユ10、オユ11は、改造前の写真を図面が出ていて、冷房化されていません。この車輌は、屋根が高いので冷房化するときは、屋根を低い屋根に改造したのでしょうか。この本あまりにも古くて、スユ16は記載されていないのです。とっても詳しい情報をありがとうございます。
tsuka5116 さん メッセージありがとうございます。まあ、だいたいみな完全に止まる前に降り始めますよね。それと、旧型客車って一番後ろなんか、止まったと思ったら連結器が伸びるためバックしらりするから、多少動いていても乗り降りしていましたね。この当時は、これが普通だったのですね。
いつも拝見させて頂いております。牛ノ谷駅の映像が、1981年2月15日とコメントがされていますが、その頃と言うのは福井県はご存知の通り史上最悪レベルの豪雪に見舞われており列車もまともには走れる状態になく、積雪も2m前後ありました。雪の量が少なすぎると思います。自衛隊の皆様のお陰もありようやく復旧できたくらいでした。
懐かしい映像 昔は無駄に長い編成だった また本当に時間のかかる客車鈍行だった 今は長距離鈍行はなくなり短距離電車鈍行^^ 停車時間も短くなったナレーションも味がある^^
niwatoriist さん メッセージありがとうございます。そうですね。親方日の丸って言ってましたからね。まあ、鉄ちゃんにとっては、昔はもっと自由に撮影できたのが、今はすっごくやかましくなって、三脚を使うなとか、ホームドアーに触れるなとか、うるさくなりました。まあ、ドアーを開けっぱで、走行していた時代なんですから。でも、これは、鉄道側だけの責任ではなく、撮影する鉄ちゃんのマナーにも責任があると思いますね。
最初に出てきたディーゼル車は名古屋行きのひ......おっと失礼💦言っちゃダメだった(^_^;)
別に、言っても良いですよ。金沢発のディーゼル特急は、それしかないのだから。
@@HobbyVideos そうでした💦ひだは今は富山発になりましたね(^_^;)
そう、一時飛騨古川までしか来なかった「ひだ」が、今は富山まで来るようになりましたね。
@@HobbyVideos ええ!ちなみに東海のキハ82は最後まで原型シートの車両がいましたね!ひだの動画で確認しましたよ!
坂田~田村間にデッドセクションを抱えていた(現在は敦賀駅から福井寄りに進んで「小牧かまぼこ」の本社兼工場があるあたりに移設)米原~田村間では、なぜDE10が牽引していたのか?文字通り坂田(現在は駅自体を米原寄りに200m移転)~田村間に直流↔交流接続の無電流区間(これが「デッドセクション」です)がある関係でEF70は当該地点を跨げないため(EF81なら問題なく跨げるが)、米原~田村間はやむなくDE10のお世話になっていたというわけです。そのために機関車の付け替え作業は田村で行っていました。では次に、湖西線永原~近江塩津間にあったデッドセクションを跨ぐ普通列車に、最初から交直流両用電車を導入せずになぜわざわざ気動車を充当していたのか?これは高価かつ高コストな交直流両用電車を、湖西線の普通列車運用にそう簡単には回せないと判断したからです。しかしこの問題は坂田~長浜間を直流化(同時に気動車2両分しか停車できなかった河毛のホーム延長工事も実施)したことで片付き、ようやくここに湖西線のデッドセクションを跨ぐ普通列車に満を持して交直流両用電車を充当できたのです。
つまり、長浜米原間の交直両用電車が直流電車で良くなったので、湖西線に使う事が出来たと言う事ですね。
@@HobbyVideos 仰る通りです。この際近江塩津でスイッチバックして近江今津~近江塩津~長浜または米原と言った変わった系統が新設されました(その後敦賀直流化を機に近江塩津の駅構内配線が変更され、近江今津方面からの列車は2番のりばに限らず3番のりばにも出入りするようになった)。
昔と今では転落防止策は雲泥の差であった。なぜならば、旧型車両は開けっ放しだった。今だったらクレームレベルである。
手で閉めれば、閉まるのです。手動ドアーなので。危険だと思えば閉めればよい。それをしないでクレームとは、とんでもない世の中になって来たもんだね。連結間の転落防止の板も。
貴重な映像ありがとうございます。5:41の松任駅での旧客普通列車と旧客を使用した急行 越前の並びが最高に良いですね。また普通を待避させてその横を長編成の急行が追い抜いていく所に本線の風格がありますね。
そうですね。普通列車も長編成なんです。
昔は急行も通過していた松任駅。
そんな松任駅に今は、特急も止まるのです。
今の特急って一体特急なの?って思います。
懐かしすぎて涙がチョチョ切れる・・・
中学生のころ、なけなしのお小遣いで友人と金沢へ撮テツしたことを思い出します。
北陸本線は、当時すでにほとんど見なくなった旧客が走りまくっていて・・・・
友人と旧客ってなんかいいね、ってファンになってしまいました。
予定の無かった旧客列車に乗ってしまったことも思い出します。
そうそう、金沢から帰るとき客車時代の「きたぐに」に乗ったのですが、ガラガラと思っていた自由席が満席、想定外の事態に指定が2席空いて、友人からお金を借りて指定に座ったことも思い出しました!
メッセージありがとうございます。
当時ほとんど見なくなった旧客が走りまくってた北陸本線。
多分、これって交流電化だったからだと思います。
直流電化だと、旧型国電に変わってしまって、旧客は山陰や東北などの、非電化区間や交流電化の区間に行ったのではないでしょうか。
きたぐには、満席でしたか。でも、いい思い出になったみたいで良かったですね。
@@HobbyVideos 旧客の消滅って交流区間も直流区間も大差ないです。
お疲れ様です😊楽しみに観ます。
とても懐かしいですね😊確かこの車両43系ですかね。乗り降りのドアは手動式ですよね❗️子供心に怖かったの覚えています。置き換えに50系レッドトレインに変わりましたよね😊古き良きて感じですね☺️
多分、43型は、台車を変えて、47型になり、それと35型時々10型も入っていたようです。
50系は、七尾線に一時入りましたが、北陸本線は、旧型客車と入替に、寝台特急電車の改造の419系に変わりました。
(余談ですが、旧型客車は系を持たないそうで、型と書きますね。私も最近になってそれを知りました。)
私も、子供のころ米原行の旧型客車にのる機会が多かったです。米原駅で機関車が連結する前の客車の中でのんびり蕎麦食べて時間待ちしてましたね。
当時は米原から泊行の長時間、長距離鈍行列車があってのんびりした時代でいつか乗ってみたいと思いました。
メッセージありがとうございます。
なるほどね。でも子どもの頃って旧型客車よりも、新しい電車に乗りたいと思った事はないですか?
私は、山陰本線の鳥取に住んでいましたが、当時の旧型客車は、白熱電球でした。子どもの頃は、そんな旧型客車に乗って、蛍光灯の付いた気動車に乗りたいな!と思った事がありました。
@@HobbyVideos 私は学生の頃から旧国・旧客派でした。
北陸本線沿線の福井に住んでいますが、実家の近くでいつも見ていた本当に懐かしい光景です。まさに10代にみてました。ありがとうございました。
+0929 eio さん メッセージありがとうございます。
今は521系の電車が走っているのですが、今となっては想像も付かない光景かも知れませんね。でも、知っている人は懐かしいと言ってくれます。
いつも大変興味深く観させて頂いております。この動画においては、まず旧型各車の編成が35系、47系、10系と混合になっているのに興味をそそられました。上野発の旧客列車にギリギリ乗車出来た私としましては、たまらなく郷愁を誘われました。あと急行「越前」の走行シーンが出て来ますが、実は高校の山岳部に所属していた時、1980年に北アルプスに向かう時利用しましたのでもう走馬灯のように当時のことが甦りました。登山シーズンだったので車内は大混雑、仕方なくデッキのスペースにザックを置きそれに座って一晩やり過ごしたのを、大変懐かしく思い出されました。でも…のどかな時代でしたね。
+Tama Kaneko さん メッセージありがとうございます。
山が好きなんですね。
良く聞く話なんですが、上野駅からお盆なんかは、ドアーの閉まらない急行越前や能登なんかに、乗って、立ったまま高崎くらいまで行き、リュックにもたれて寝てしまったりして、朝になったらピッケルが、人ごみの空気なんかで、錆びているとか聞いたことがあります。
でも、北アルプスでしたら、新宿から旧客の夜行で松本へ行き、大糸線の水色の電車、って言う行き方が定番だったのではないでしょうか?
白馬なんかから、登る時は糸魚川から大糸線に乗った方が速いのかな?
まあ、そんな時代の列車、東京では、自動ドアーの山手線や中央線の103系がバンバン走っている時代、北陸の田舎では、交流電化のため、こんなドアーのアケッパの旧客が残っていたのです。
もし、直流電化されていたら、大糸線や新潟のような旧型国電になっていたかも知れませんね。
+国鉄時代の鉄道ファン 返信ありがとうございます。若い頃はよく北アルプスに行ってました。越前で北陸側から入山したのは、新穂高温泉から雲ノ平、薬師岳、立山に行く縦走をしたためです。アケッパの客車はもう時代の遺物と化してしまいましたね。なお、私の時代はギリギリ新宿発長野行夜行鈍行が消えた頃かと思います。松本行夜行電車(113系)では長野方面から北アルプスに入山するには到着時刻が遅すぎました。南アルプス、八ヶ岳に行く時はよく利用しました。後立山、槍穂高などに行く際には専ら急行アルプスを利用していました。旧型国電には、中学の頃身延線で何回か乗りました。今はもう旧型国電も何処にも残ってないんですよね、時の流れを痛感します。
+Tama Kaneko さん メッセージありがとうございます。
新穂高温泉から立山ですか?すごいですね。あそこはダイヤモンドコースって言うルートで、私は昔立山室堂から一の越、五色が原、スゴ乗越、太郎、黒部五郎、双六を経て笠ヶ岳まで6日くらいかけて歩いたことがあります。
帰りは高山から急行のりくら、富山から急行しらゆき どちらもキハ58系の列車で帰ったのですが、高山から富山まで急行に乗っていると、こんな距離を歩いたのか!ってしみじみと歩いた距離の長さを感じていました。
身延線は、旧型国電が一杯走っていたようですが、もしも、北陸も直流電化されていたら、同じ運命をたどっていたのでは、ないかと思います。
貴重な動画有難う御座います。鉄道も進歩して行く訳ですが、やはり客車列車は良いですね。43系は客車の代表的存在ですね。私はEF58の牽引する急行荷物列車が一番好きですね。
EF58牽引の急行荷物列車ですか。私は山陽本線で撮影した事があったかな?もちろん静止画ですけどね。
現在の盛岡に移り住み30年たった今、松任生まれの松任育ちの私にとってはとても貴重な映像です、ありがとうございます
メッセージありがとうございます。
松任生まれの松任育ちですか?
私は今、松任に住んでいるのですよ。
松任はずいぶん変わりました。
市が、白山市となって、駅も、橋上の駅となって、横には新幹線の高架が出来、駅前のジャスコはどは、立体駐車場となって、今、駅の下を通る地下道の工事が行われています。
私も、変わりゆくふるさとの風景をいっぱい記録しています。
当時通っていた小学校がこの動画の撮影地点あたりだと思われます。ぜひ故郷の記録を大切にお願いいたします。
新井慎一郎 さん メッセージありがとうございます。
もしかして、蕪城小学校かな?
それとも、北陽小学校かな?
蕪城小学校は、もう移転して、新しく田んぼの中に立っています。
昔の蕪城小学校の場所は、保育所と住宅地になっています。
はい「蕪城小旧」でした、なのでこの動画の光景が懐かしくてたまりません。
また祖父が国鉄松任工場に勤務していましたので、その事も同時に懐かしく思い出しています。
いずれは帰ろうと思いながらも、現在の盛岡で28年目を迎えております。
ぜひまた、松任市内の画像がありましたら、アップお願いいたしますね
新井慎一郎 さん メッセージありがとうございます。
そうでしたか。蕪城小学校の近くに、北陸本線を高架で通過していた道路がありましたよね。
今は、その道路がアンダーパスになっています。
あの辺は、本当にずいぶん変わりましたよ。写真は、時々撮影していました。
大変懐かしく拝見しました❗️高校時代大門から東富山まで通学しました❗️城端から来る普通でこれを逃すと完全に遅刻。よく出発を遅らせてもらいました
こんな列車で通学なんて、最高ですね。
ありがとうございます。こちらもとてもなつかしいです。蒸気が無くなったあと、電機とくに旧型を追いかけた時期がありまして、敦賀のED70が余命短いと聞いて、北陸本線の新疋田あたりに通った時期があります。関西や名古屋からの特急、急行が行きかう中で各駅列車が旧型客車だったのを見て驚いた記憶があります。EF70もバリバリの現役でしたし、EF81は最新鋭機でした。70年台半ばのお話です。
メッセージありがとうございます。
私と同じ頃ですね。私は70年代半ばは、高校でその頃に初めて近江塩津へ撮影に行きました。その時米原から乗った旧型客車がDD50牽引の漁船のエンジン音の列車だったのです。田村からは、EF70が牽引し旧型客車とは言え、山陰本線と違って猛スピードで走る姿に感激しました。
写真しか有りませんが、当時はED70も走っていましたね。私は、近江塩津の湖西線が工事中の時に撮影に行きました。私の「国鉄時代の鉄道ファン」のホームページに写真を載せています。白黒ですが・・・。
旧型客車は、蒸気時代の旅の雰囲気を少しでも感じる事の出来る乗り物だったんですよね。
冒頭にある ピッタリ止まった筈が
懐かしの光景です。
こんな当たり前の旧客の時代、またそれに戻っても良い そう思うこの頃。
大井川鉄道に行かなければ・・・・
あそこに行くと、タイムスリップしたような気分になれるかも。
この列車に乗って西金沢~福井まで通学していたような気がします)。車掌さんが無線で「上り222機関士どうぞ!」とやり取りしていたのを何度も聞いた覚えがあります。この222列車が1975,6年頃も運行していたのなら・・・ですが。いずれにしても懐かしい思い出が溢れ出しました。西金沢5:59発だった気がします。
西金沢から福井まで通学って、ずいぶん遠いですね。
でも、今から思えば、すっごく贅沢な通学だったのかもしれませんね。
客車の米原行きは、途中でディーゼル機関車に切り替わるんですよね。
あの当時は「古臭いなぁ」なんて思ってましたが
今思うと、味があって旅情が沸いていいですね。
ありがとうございました。
古臭いか!そうも感じますね。
清水俊介さん
実はそうだったんです。
それでは早速ですが、その理由についてご回答いたします。
そもそも客車列車全廃後というか、JRになってからの1991年9月までは坂田~田村間に直流↔交流切り替えのための「デッドセクション」(無電流区間)がありまして(その後同年9月14日の坂田~長浜間直流化の際に長浜~虎姫間の米原起点9.5㎞地点に、さらに長浜~敦賀間直流化の際に現在の「小牧かまぼこ」本社屋兼工場が建っているあたりにそれぞれ移設。この15年もの間にデッドセクションの移設を2度行った事例は極めて珍しいといえる)、1962年に導入された北陸本線の客貨輸送のリーダーシップ的存在だったEF70は交流専用でそこを通過できないため、田村でDE10↔EF70の相互付け替えを行っており、長時間停車をその分余儀なくされました。しかしながらEF70はJRになるのを待たずして全機が退役してしまったため、1両もJRに引き継がれなかったのが惜しまれます。
なお坂田と河毛はホーム有効長が気動車2両分しかなかったため、1日に指折り数えられる程度しか停車できませんでしたが、前者は坂田~長浜間直流化の際に駅を米原寄りに200m移転させたことにより、供用開始までの間は新旧両方を拝むことができました。後者は単に電車1両分敦賀寄りに延長しただけでしたが、長浜~敦賀間直流化工事を兼ねて駅の改装に取り掛かった際、「SL北びわこ」対応としてさらに3両分敦賀寄りに延長して現在の姿と化しています。
@@rhscm989さん
デッドセクション(死区間)ですよね。
知ってますよ。485系のしらさぎに乗ってる時に一瞬だけ車内の明かりが消えましたね。
コメントありがとうございました。
乗ったなぁ、旧客。中学時代(70年代)山中温泉に泊まって金沢に出るときにわがまま言って乗った記憶もあるし
大阪から福知山線で背もたれまで木製(クッションなし)の61系に乗った記憶もありますよw
発車するときの連結器の音がしばらく続くあれが好きでしたね。
今も会社が加賀市で仕事があるので、大聖寺と加賀温泉間はどこかがわかってしまうw
旧型客車が好きだったのですね。61系に乗られたとは、良い経験ですね。あの客車は、シートピッチが狭く、窮屈でしたでしょ?
それに、室内灯は、白熱電球だったかな?
@@HobbyVideos
そうそう、狭かったですよ。確か出雲市行きだったと思う。
山陰線でも旧客乗った記憶がありますね。まだ今のトロッコ線の線路使っていた頃です。
出発の時の連結器の断続音が好きでした。
自分がカメラ系の撮り鉄してた頃の少し後ですね。
後でうるさいのはひ・・・まだ言ってませんよw
旧客は発車した直後の後ろの車両まで続いていく、連結器が当たる音が好きですw
特に夜に乗った時は独特の感情が芽生えたもんですw
そういや自分のアルバム整理してたら1978年の金沢駅の写真が出てきました。
家族旅行なのに朝早くに金沢駅で父と撮り鉄してましたねwww
出てきた写真ですが、旧客はもちろん特急白山と急行(475系の方の)長サボゆのくにとの並びがあったり、
入れ替えしているEF81のトプナンがあったり、七尾線用で屋根を赤く塗った珍しいキハ65があったりしましたよ。
貴重な写真をお持ちなのですね。スライドショーにして、RUclipsにアップすると良いと思いますよ。
私も、ビデオを始める前の写真も色々あるのですが、なかなか忙しくて、スライドショーにする暇も無いのです。
@@HobbyVideos 時間ができたらするかもしれません。
京都市電が現役だった頃の写真もあったりしますw
全部自分が中学生の時に取ったものですw
@@HobbyVideos あとごめんなさい、屋根の赤いのはよく見たらキハ53でした^^;
そうそう京都市電、私も撮影しました。写真ですけど。
両運転台の急行系ですね。
滋賀県民ですが、懐かしいですね。
昨秋、1/150でEF70(K社)が20数年ぶりに再販されて、往年の編成のヒントとして見させて頂きました。
田村駅で小さい頃みてました。
メッセージありがとうございます。
小さい頃の思い出の列車。思い出の車両。それはもう模型で残すしかないですね。
わたしも、いづれ見れなくなるだろうと、必死で撮影したビデオです。
お久しぶりです。
あれから、旧客(+郵便車)を中古や新品でかき集めて楽しめるようにしました。レンタルレイアウトでの再現が楽しみです。一昨年のEF70だけでなく昨年にはED70も発売。益々、往年が楽しめて嬉しいですよ。
余談ですが、群馬県内に生体保存のEF70を見ることができるそうなので何時かは見に行きたいですね。
スハ43系の中で、ナハ10?が1両混じっているのが、何とも言えないですね~
HOの模型編成でも、こういう雰囲気を再現して、楽しみたいです!
当時は、スハ43型は、台車を変えてオハ47型になったのが多かったみたいです。
ナハ10は、全国各地で時々連結されてましたね。
このナハ10は、旧型客車とは、言わないのですね。・・・軽量客車でしたっけ。
そして、12系は、なんて言うのだろう。・・・新型客車?
@@HobbyVideos 分類は曖昧です。10系は20系等と違って電源車&固定編成ではないので旧客に入れる人(私も)もいます。
北陸本線にこんな客車がいた時代があったんですか!?
はじめて知って衝撃です!
昔は、普通列車は、このような客車でした。
北陸本線は、交流だったので、このような客車になったのでしょうね。
もし、直流電化だったら、旧型国電が走っていたのではないでしょうか?
声が優しい
ありがとうございます。
最近、仕事場で後輩と喋っていたら、鉄道列車全てを電車と言ってました。
気動車、客車列車を全部ひっくるめて電車みたいです。
貨物列車でもコンテナ特急とローカルがあったり、荷物列車、急行、鈍行と色々な列車あったのに、いつの間にか合理化で消えてしまいましたね。
メッセージありがとうございます。
そうそう、昨日、テレビの番組で九州の豪華列車って言うか、人気列車の番組を見ていたら、てっちゃんの人が話をしていたのですが、この電車は、タブーなんです・・・とか行って、出てきた映像をみてみたら、なんと パンタグラフが無い。
もしかして、電車じゃーないの?って思いました。つまり、鉄道車両は、いまや全て電車って言うくらい、電車化が進んできたのでしょうね。
昔、蒸気機関車の事を、全てデゴイチなんて言ってた人もいたようですね。
ところで、私、小学校の2年から4年まで、兵庫県に住んでいました。あるとき、バス遠足で、国鉄山陽本線の踏み切りと私鉄の山陽電鉄の踏み切りを渡るとき、バスガイドが、2つ踏み切りを渡りますが、1つめが、汽車の踏切で2つめが電車の踏切です。
って私たち小学生に説明していました。
つまり、あの当時は、
国鉄・・・・・>汽車
私鉄・・・・・>電車
って子どもだましに教えていたのでしょうね。
でも、実際、七尾線も電化され、金沢では、電車しか見れなくなってしまった状態だからね、電車と言って、まあ外れる事はないかもね。
貨物以外。
それはそうと、最近は、コンテナーしか走っていませんが、これは、どう言ってます?
みんな、貨物って言っているように思うのですが・・・・
返信、ありがとうございます。
貨物はたまに貨物列車と言っているのを聞きますね。
コンテナ車とタンク車ぐらいしか見たことないみたいです。
ワムハチは畑や空き地によくある倉庫だそうな。
石黒智 さん メッセージありがとうございます。
昔の貨物は、今は、倉庫になっているのですね。
でも、それだけ丈夫って事かな?
線路の上に居たら小さいけど、畑に置いたら、大きいですね。中にベッドを置いてそこで、生活が出来そうな。
昔、家具の配送をしてた時、ソファーをお客さの家に届けた時に、必ず言われる言葉、
「お店で見てたら小さいけど、家に入れたら大きいですね」
とか、
「このソファー大きくなったのですか」
とか、言われてしまいました。(笑)
鉄道郵便がなくなったのは59-2改正(護送便は61-11改正?)みたいです。
その頃なのかな?
郵便も鉄道よりもトラックつまり道路に変わりつつあったのですね。
これからの鉄道は、どうなるのでしょうかね。
都会はもちろん威力を発揮できるでしょうが、田舎はそうは、行かないのです。
とにかく、田舎は駅から目的地まで交通手段が貧弱なので、みなマイカーに頼る時代になっています。
@@HobbyVideos 私はオッサンですが、1960年代生まれなので「現役」SLは見た事ないです。
話を戻して、北陸本線も普通列車のダイヤ悪いですね⁉️今は貨物が少ないので、毎時大阪特急2本・名古屋(米原)特急1本・普通1本(金沢~小松は2本)の時刻表要らずのパターンダイヤは可能なはず。しかも、車庫が金沢なので金沢~敦賀の直通の方が乗り換えなしで便利で、ダイヤ設定も楽なのでは?
あと、泊~直江津以外は3セク化すべきではなかったですね。
同級生のお父さんが、郵便車に乗って仕分けをしていたそうです。客車は、福井の嶺南から嶺北へ通学する高校生が利用し、ふざけていてデッキから転落した生徒もいたそうです。
メッセージありがとうございます。
高校生か!やりそうですね。
普通客車同士で嶺南から嶺北(小浜線下りから北陸線下り)へ広域移動>
1980年10月1日改正段階で毎朝9時台序盤に1回だけ実際にできていたのです。
その内訳は、東舞鶴を7時01分に発車したDE10が牽引する※931列車が敦賀1番線に9時04分到着後、その5分前に同駅2番線に入線済みの米原を8時ちょうどに出発した1274列車に同じホームで2分の待ち合わせで接続するダイヤでしたが、931列車からの接続相手で最も早く敦賀を出発する列車であるがゆえに、2駅先の今庄で1274列車の11分後に発車した特急「雷鳥」3号(新潟行き)に、さらに鯖江でも1274列車の24分後に発車した急行「立山」1号(糸魚川行き)にそれぞれぶち抜かれ、最終的に終点・福井到着は10時21分と1274列車の41分後に発車した特急「雷鳥」5号(金沢行き)に3分差にまで詰め寄られるという、いかにも嫌らしいダイヤでした。
※三松・勢浜・若狭有田・藤井・東美浜・西敦賀の6駅は通過。
この客車列車は、友人が福井の学校に通学するのに使っていて、デッキでふざけていて田んぼに転落、、、した人がいました。幸い命に別状はありませんでした。
やっぱり、そう言う馬鹿たれが居るから、困るんですよね。
これは、誰が悪いと言う事になると、普通ならば、ふざけていた人が悪いと言う事なんだけど、今はおかしな時代で、ふざけていても転落しない対策を講じていなかった鉄道会社が悪いと言うことで、旧型客車は、消えました。
ナレーションの雰囲気が何かに似てると思ってたら『真珠の小箱(紀行番組)』ですね
自己流でナレーションやってます。
昔は列車の運行本数少な目だったから長大編成になってたんですよね
長大編成になっていた理由はわかりませんが、確かに列車の本数は、少なかったですね。
この時代よくお世話になりました。当時米原発長岡行と言うとんでもない普通列車が存在しましたね。
はい、私はそれの逆方向、長岡発米原行に新潟県の青海川から米原まで乗りました。
車掌さんは、何度も何度も車内をまわって、私は、あの車掌さんず~っと乗っているので、どう思われているかとか、色々考えたりしていました。
国鉄は高価な交直流電車や交流電車は多数製造せず、交流電化区間は長らく普通列車だと客車がデフォだったぽいですね。東北地方も同様。
ここ北陸本線も国鉄末の国電型ダイヤ導入でようやく普通に電車導入。だけど予算がないので、あの旧寝台型電車583系を最小限改造した419系という異形式の出番となりましたな。
メッセージありがとうございます。
そうですね。もしも直流電化されていたら、旧型国電なんかが、走っていたかも知れませんね。
新潟地区や富山港線の実績がそれを示していますねえ。
そう言えば富山港線は、旧型国電でしたね。
新潟色の国電が米原から新潟まで走っていたり・・・・
もしかしたら、大糸線も電化され、松本から糸魚川まで電車が走っていたかも知れませんね。
何か、北陸本線の直流電化で夢が広がってしまいました。
@@HobbyVideos さん
富山港線(現富山ライトレール)は、元々富山電気鉄道と言う私鉄を旧国鉄が買収したのがルーツですからね、同じ形態では、JR仙石線(旧宮城電気鉄道)もそうでは❓
5:00~ 「鈍行列車」、、乗車口なんか空きぱなしで・・・ユルイ時代でしたね。
確か、、トイレの便器の底から線路が見えていた覚えが・・・^^。
12:36~ 北陸線普通列車も気が付けばメチャ進化してしまったわ~。
+TheJackmaster7 さん メッセージありがとうございます。
あはは!私昔東北旅行中、オーバーオールを着てて、胸のポケットに小銭を入れてたのを忘れて、トイレで、肩ひもを外したら、小銭が、便器に落ちてしまい、覗いたら、線路が見えていました。
昔は、そんな時代だったのですね。急行きたぐにや津軽、八甲田ですら、ドアーは、手動でしたからね。
今と思えば、このトイレでウンコしてみたかった。
@@山辺渉 私はあるはず⁉️
@@山辺渉 大井川鐵道のSL列車に乗れば体験できると思いますよ
機関車後ろの郵便車には冷房がついていたのですかね?
映像を拝見すると、それらしきものが見えたので・・・。
メッセージありがとうございます。
そうそう、郵便車は冷房が付いていました。
お客の乗る車両は、クーラーなしなのにね。当時、みんなそう言ってました。
国鉄時代の鉄道ファン
自分も幼少のころ、常磐線で上野発仙台行の旧型客車などを見ましたが、旧型客車は乗降用のドアが自動ではなく、手動のため、完全に止まる前に降りてしまう人がいたのを覚えています。
全ての郵便車がそうだったわけではありませんが、222レに使われていたオユ10・オユ11は後の改造で多くが冷房化されました。また、最初の方に出ていた、右カーブを曲がってやってくるシーンでカマ次位にいたスユ16は最初から冷房化されていました。
普通の客車や荷物車(電車や気動車も)は国鉄所有ですが郵便車は当時の郵政省の所属で冷房化するのも郵政省の意向で出来た側面もありますが、最大の理由は、これらは扱い郵便車と言って車内で郵便物の仕分けをする関係で窓を開け辛かったため早期に冷房が普及したものです(車内で郵便物の仕分けをせずただ郵袋のみを運ぶ護送郵便車は全車種全車輛最後まで冷房化されていません)。尚北海道や東北方面など主に寒冷地で運用されるものや、車内の一部のみ郵便車機能(所謂合造車)を持つものは冷房化されていません。
SleeperExpressJNR さん とっても詳しいメッセージありがとうございます。
今、1971年版の客車・貨車ガイドブックを見ているのですが、オユ10、オユ11は、改造前の写真を図面が出ていて、冷房化されていません。この車輌は、屋根が高いので冷房化するときは、屋根を低い屋根に改造したのでしょうか。この本あまりにも古くて、スユ16は記載されていないのです。
とっても詳しい情報をありがとうございます。
tsuka5116 さん メッセージありがとうございます。
まあ、だいたいみな完全に止まる前に降り始めますよね。
それと、旧型客車って一番後ろなんか、止まったと思ったら連結器が伸びるためバックしらりするから、多少動いていても乗り降りしていましたね。
この当時は、これが普通だったのですね。
いつも拝見させて頂いております。牛ノ谷駅の映像が、1981年2月15日とコメントがされていますが、その頃と言うのは福井県はご存知の通り史上最悪レベルの豪雪に見舞われており列車もまともには走れる状態になく、積雪も2m前後ありました。雪の量が少なすぎると思います。自衛隊の皆様のお陰もありようやく復旧できたくらいでした。
懐かしい映像 昔は無駄に長い編成だった また本当に時間のかかる客車鈍行だった 今は長距離鈍行はなくなり短距離電車鈍行^^ 停車時間も短くなった
ナレーションも味がある^^
niwatoriist さん メッセージありがとうございます。
そうですね。親方日の丸って言ってましたからね。
まあ、鉄ちゃんにとっては、昔はもっと自由に撮影できたのが、今はすっごくやかましくなって、三脚を使うなとか、ホームドアーに触れるなとか、うるさくなりました。まあ、ドアーを開けっぱで、走行していた時代なんですから。
でも、これは、鉄道側だけの責任ではなく、撮影する鉄ちゃんのマナーにも責任があると思いますね。
最初に出てきたディーゼル車は名古屋行きのひ......おっと失礼💦言っちゃダメだった(^_^;)
別に、言っても良いですよ。
金沢発のディーゼル特急は、それしかないのだから。
@@HobbyVideos そうでした💦ひだは今は富山発になりましたね(^_^;)
そう、一時飛騨古川までしか来なかった「ひだ」が、今は富山まで来るようになりましたね。
@@HobbyVideos ええ!ちなみに東海のキハ82は最後まで原型シートの車両がいましたね!ひだの動画で確認しましたよ!
坂田~田村間にデッドセクションを抱えていた(現在は敦賀駅から福井寄りに進んで「小牧かまぼこ」の本社兼工場があるあたりに移設)米原~田村間では、なぜDE10が牽引していたのか?
文字通り坂田(現在は駅自体を米原寄りに200m移転)~田村間に直流↔交流接続の無電流区間(これが「デッドセクション」です)がある関係でEF70は当該地点を跨げないため(EF81なら問題なく跨げるが)、米原~田村間はやむなくDE10のお世話になっていたというわけです。そのために機関車の付け替え作業は田村で行っていました。
では次に、湖西線永原~近江塩津間にあったデッドセクションを跨ぐ普通列車に、最初から交直流両用電車を導入せずになぜわざわざ気動車を充当していたのか?
これは高価かつ高コストな交直流両用電車を、湖西線の普通列車運用にそう簡単には回せないと判断したからです。しかしこの問題は坂田~長浜間を直流化(同時に気動車2両分しか停車できなかった河毛のホーム延長工事も実施)したことで片付き、ようやくここに湖西線のデッドセクションを跨ぐ普通列車に満を持して交直流両用電車を充当できたのです。
つまり、長浜米原間の交直両用電車が直流電車で良くなったので、湖西線に使う事が出来たと言う事ですね。
@@HobbyVideos
仰る通りです。この際近江塩津でスイッチバックして近江今津~近江塩津~長浜または米原と言った変わった系統が新設されました(その後敦賀直流化を機に近江塩津の駅構内配線が変更され、近江今津方面からの列車は2番のりばに限らず3番のりばにも出入りするようになった)。
昔と今では転落防止策は雲泥の差であった。なぜならば、旧型車両は開けっ放しだった。今だったらクレームレベルである。
手で閉めれば、閉まるのです。手動ドアーなので。危険だと思えば閉めればよい。それをしないでクレームとは、とんでもない世の中になって来たもんだね。
連結間の転落防止の板も。